バラバラに、ともに。遠藤まめたのブログ

LGBTの子ども・若者支援に取り組む30代トランスの雑記帳です

LGBT理解増進法は女湯の運用とは関係がない

LGBT新法をめぐって、この辺は前提に議論できると良いかなと思うことを整理してみた。なおタイトルには理解増進法をあげたが、差別禁止法も同様である。

(ちなみに執筆者はトランスジェンダーの当事者として2010年前後から議員に政策提言などもしている立場です)。23年5月16日更新、自民党案を追記しました。

与野党合意されているのは理解増進法

議論されている法律は2種類ある。ひとつめは理解増進法で、こちらは2年前に与野党合意されたが自民党内の一部反対によって成立しなかったもの。こちらに本文をあげてみた。

www.evernote.com

国が性自認性的指向に関する基本計画を作ること(3年ごと更新)、自治体や事業主、学校などが理解増進のための努力をすることといった内容が入る。

もともと自民党が主導で理解増進法を作る動きをしてきたが、自民党は過去の言動からLGBTに対して真面目に政策をやるつもりがないとみなされており、理解増進法も当事者コミュニティからは警戒されている。理念法なので、具体的な規制や罰則は存在しない。

もう一つが差別禁止法で、野党が提出したものはこちらに本文がある。

www.shugiin.go.jp

差別禁止法は行政や事業者などに合理的配慮を求めるもので、事業者や個人に対する罰則規定があるものではない。

② 女湯の運用は関係がない

「新しい法律ができると女湯にペニスのある人が侵入して〜」という話がSNS上で流布されているが、理解増進法にはそんなことは書いていない。理念法に「差別は許されない」と書いてあるのは理念の話である。

差別禁止法であっても求めているのは合理的配慮だ。合理的配慮というのは、聞きなれない人もいるかもしれない。たとえば障害者差別の文脈においては、合理的配慮とは「障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」を指す。つまり、かならずしも全ての場面で障害の有無にかかわらず同じように接しなくてはいけないものではない。LGBTの場合も同じで、かならずしも全ての場面でLGBTでない人と同じように接しないとダメ、というわけではない。

すでにある自治体の差別禁止条例のFAQも参考になる

差別禁止を盛り込んだ「埼玉県性の多様性を尊重した社会づくり条例」は、HPで次のように解説されている。

Q2-3.性自認は、どんな場合でも優先されるのでしょうか。例えば、性自認が女性で、戸籍上の男性が女性専用エリアに立ち入った場合はどうなりますか?

 

自らの性自認は尊重されるべきものですが、この条例によって、どんな場合でも性自認が戸籍上の性別に優先されるということにはなりません。

例えば、公衆浴場について、厚生労働省の公衆浴場における衛生等管理要領により、浴室は男女に区分した構造が規定されておりますが、これは公衆浴場法が規定する風紀の確保に必要な措置として定められているものです。また、入浴についてはおおむね7歳以上の男女を混浴させないこととしています。これにより、制限年齢の戸籍上の男性は女湯で入浴することはできません。

「埼玉県性の多様性を尊重した社会づくり条例」が、法律による規制を上回ることはないため、性の多様性の尊重を理由に、違法性が阻却されることはありません。

www.pref.saitama.lg.jp

本条例の制定に奔走した渡辺大議員は「条例の規定が、迷惑行為防止条例等、偽計業務妨害罪、建築物侵入剤などの構成要件の該当性を否定したり、違法性を阻却するものではありません」とも述べている。要するに、犯罪者を処罰するためにいかなる妥協を行うつもりはないということだ。

野党提案の差別禁止法についても、同様に議論できる。差別禁止法には刑法に関する記述は存在しないから、犯罪者の処遇についてなんらかの妥協が行われるものでもない。こちらもよければ参考に。

trans101.jp

(埼玉県のようなFAQが野党提案の差別禁止法とセットで用意されていると、このようなブログ記事を書かなくて済むので今後ぜひ期待したいところ)。

③ トランスジェンダーが「女湯に入れろ」と要望しているわけではない

そもそもの話だが、トランスジェンダーが「手術なしで女湯に入らせろ」と立法を要求してきたわけではない。トランスジェンダーは人口の1%にも満たず、知り合いにトランスジェンダーがいない人が大半であるため「よく知らない=怖い人たちがトンデモな要求をして社会を壊そうとしている」というネガティブ・キャンペーンが浸透してしまいやすい。このような不安を煽る流言が効果的だから、LGBTに否定的な人たちは確信犯的に女湯の話を持ち出しているので悪質である。

www.youtube.com

同性婚アメリカ全土で法制化し、闘いに敗北した宗教右派が今度はトランスへのネガキャンに注力するようになった話はこちらの動画でもされている。このようなグローバルな反動があることは議論の前提として知られてほしい)

④差別禁止法があっても制限できるのは一部

「差別禁止法が必要だ」「差別禁止法は危険だ」など、さまざまに意見が飛び交っているが、そもそも法律で規制できる差別は一部である。


有名な「憎悪のピラミッド」の図をあげてみる。こちらの上から二つ、すなわち虐殺や殺人、暴行などは既存の刑法でも取り締まることはできる。差別禁止法がカバーしうるのは三段目の「住居差別」「就職差別」「教育差別」などである。

トランスジェンダーであれば、9割が就職活動時に困難を抱えたとか、履歴書の性別と身分証が一致しないから内定を取り消されるだとかが珍しくない話としてある。痴漢に遭遇して警察に行ったところトランスジェンダーだとわかった時点で態度が変わったとか、そういう話もある(トランス男性、女性ともに半数が性被害の経験があるのに、適切に対処できる窓口は限定されている)。

差別禁止の法制度はそのような事柄を防止する効果が期待される。しかしながら、このような場合でも、もし内定取り消し等がされてしまえば不当だと主張したり、時には裁判をしたりして、差別を受けた当人が立ち上がらなければならず、差別を受けた当人がかなり頑張らないといけない。

ピラミッドの下2つについては、法律ではなんともしがたいエリアになっていく。例えばSNSで飛び交っているトランスヘイトの罵詈雑言なんかも、多くは差別禁止法では対処できないエリアとして存在し続けるだろう。当事者の日常をもっとも消耗し、メンタルヘルスを阻害させるのは、憎悪のピラミッドの下の方にある事柄だと言われているから、なかなか辛いところである(マイクロアグレッションという言葉は、法律ではどうしようもない差別を表すものとして近年日本でも使用されつつある)。

反差別を考える際に「法律では規制のしようがないエリアがかなりある/むしろ日常的な差別の大半である」ことは、議論の前提として持っておいた方が良いと感じる。

⑤「理解」についての私見

10年近く前になるが、NYを訪れたときに婚姻平等を求めて戦った団体の人が、平等には2種類の考え方があると話していた。「法的平等」と「生身の平等」だ。トランスの権利は後者の部分が大きいだろうと彼は話していた。ロバを水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない。人々が実感としてトランスジェンダーの人たちを自分と同じような人間だとわかることが必要だ。

他者の理解に依存しないと安穏に生活できない社会はクソである。だが、実際のところ理解は重要である。婚姻平等が法制化された際にも、結婚したと職場に報告できる環境を支えるのは理解だろう。アプローチの仕方という「ものすごくざっくりした話」をすれば、差別禁止があれば理解増進はいらないとはならないし両方必要である。LGBT理解増進法があれば学習指導要領にLGBTが入りやすくなるだろうし、限定的であったとしても効果には期待している。

自民党案を追記

5月16日更新。2023年5月の自民党案を追記した。性自認が性同一性に変更されることなど話題になっているが、性同一性の定義はこちらの範囲で見る限りは性自認と同様であるようだ。今後の国会での議論がどうなっているのか注視したい。

www.evernote.com

 

今年こそ居場所づくりを再開したい/はじめたい方へ

2023年が始まりましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。コロナ禍に突入して、相変わらず感染者は多いけど、そろそろ日常のあれこれが正常化してきた頃かと思います。年末に、久々に各地のLGBT団体のサイトを見ていたら、交流会が停止したままのところが多くて、コロナの影響だなと思いました。んで、このブログは新しい年だし、そろそろ再開しませんかというお誘いです。新しく居場所を始めたいという人にも参考になると思います。

モチベーションが高いお正月がチャンス

エアコンはスイッチをONにした時が一番エネルギーを食うと言いますが、それと同じ。止まってたものを動かすのって面倒くさいですよね。だから「2023年だし」みたいなそれっぽい理由で「そろそろ居場所、再開しませんか」みたいに団体メンバーに打診してみてもいいんじゃないでしょうか。止まった活動を再開させる時の一番の敵はモチベーションじゃないかと思うので、交流会みたいなイベントは開催してみて「楽しい!」と思えば続く部分もあるんじゃないかという無責任な提案です!

大人の居場所をやってほしい理由

私はにじーずというLGBT(かもしれない人を含む)子ども・若者の居場所をやっています。

24zzz-lgbt.com

札幌から岡山まで全国10都市近くに拠点があり、毎月から隔月1回の頻度でそれぞれ対面でみんなで集まって遊んだり話したりしています。コロナ禍でも活動を続けてきたのは、ステイホームすることによる若年当事者の孤立や各種リスク(親から受け入れられず心無い言動を日々されている場合もある)を考えてのことです。

にじーずの活動を全国展開するにあたっては、持続可能に活動をしていくための拠点選定の条件がいくつかあります。そのひとつの要件が「LGBTの大人の居場所が地域にあること」です。だって子どもの居場所を開催しているのに、24歳になったらサヨウナラでは無責任じゃないですか。

先ほど上記で無責任な提案をしていたのにも関わらず、ここではいきなり責任感を発露してしまいました!すみません!

でも大人が孤立している地域社会で、子どもや若者が希望を持てるかといえば、やっぱり厳しいかなと。進学などをきっかけに都会に人口流出していくのも地方在住者のリアルのひとつかもしれないけど大人のLGBTの居場所、全国にほしいです。

 

居場所が続くコツ

これまで18年ぐらいLGBTコミュニティで活動してきた中で仲間がバーンアウトしたり、会が解散したり、いろんなことも見てきました。人によって運動哲学は違うけど、以下のことは参考になるんじゃないかと思って、箇条書きにしてみます。

 

① 居場所は、毎回同じ場所でやったほうがいい

「次の会をやるにあたり、会場の予約がうまくいかない」ことは、意外と会の存続とメンバーのモチベーション維持の障害になります。これが命取りで、事実上の活動停止に追い込まれてしまったグループ結構ありますね。

県がとっても広くて3か所で持ち回りでやりたい、などの理由を除いて、基本的には同じ場所でやるのが参加者も迷子にならなくて良いと思います。予約を取りやすい施設をホームグランドに決める、というのもストレスがなくていいですね。スティーブ・ジョブズは決断の数を減らすために毎日同じ服を着ていたそうですが、それと同じです。

 

②予定は、できるだけ固定する

次どこでやろうか、みたいなことに時間を費やしたり、全員の時間をあわせようと手帳見て結局なんだかんだ決まらない、みたいなのも避けられるなら避けましょう。

「第三日曜にやるから、そこの予定はみんな空けておこう」ルールも楽だし、それが難しい場合も、次回の約束をしてから解散する方が無難。

 

③ 運営に関する会議はなるべくオンラインで

コロナ禍で一番良かったことはビデオ通話が日常生活の中に浸透したことかなと思います。以前は自分も仕事の後に、電車で30分移動した会場に行って、そこで会議をして、1時間半かけて帰宅するのが当たり前だったけど、こういうのは持病があったり、家が遠かったり、育児などをしてる人からすると参加障壁ですね。通話が終わったら、風呂入って寝られるのは最高です。議題を決めて、1時間半と時間を決めて、さっさと終えましょう。ビデオ通話だと画面共有で資料が見えたり、議事録で何の話をしているのか見えやすくなったりする利点もあります。

以前、大阪の労働組合が仕事後に会議&飲み会をするやり方を改め、オンラインを導入したら初めて女性や若者の参加率が上がったという話をしていました。オンラインによって参加できなくなる層もいる場合をのぞき、技術的に切り替え可能なグループであればオンラインの方が持続可能かなと個人的には思います。

 

④やらないことを決める

to do(やること)を決めるのと同じか、それ以上にnot to do(やらないこと)を決めるのは重要だと、いろんな本に書いてあります。グループも同じですね。にじーずの場合には、not to doとして大人の居場所づくり、常態化されたタダ働き、無秩序なフロア運営など、団体を立ち上げた時から自分の中で決めているルールがあります。これは団体のカラーなどによって色々変わってくると思うので、これから立ち上げる方はぜひ参考にしてもらえたらと思います。

なお、居場所を新しく始めたい方は、にじーずはグランドルールを他団体でも一定の条件で使えるように公開しているので、良かったらこちらも参考にしてみてください。

 

以上、いろいろと無責任に書いてみました。結局、責任感があるのかないのか、どっちなんだ。今年も一年よろしくお願いします。

炎上案件と当事者の役割(ロール)

LGBTに関するさまざまななニュースのコメントをメディアから求められる機会が多い。政治がらみの案件以外は、自分があまり怒っていないことに最近気がついた。自分が炎上してしんどかったことを思い出したり、コミュニティ全体が不寛容だと思われることへの心配、やらかした担当者の無知への同情など、色んな気持ちが渦巻いている。

ただ求められるのは一言コメントで、ロッキンオンみたいな2万字インタビューじゃない。 当事者の役割は怒りだったり傷つきだったりと狭く理解されている。「自分が次は炎上するかもってビビりました」なんてコメントは絶対に採用されないしね。 だけど、こういう話も安全にできたらいいよね。

ミンデルが「紛争の心理学」でこんなことを書いている。

「近い将来、教育や階級やお金を有する者が、有能な指導者になるのではなくなるだろう。代わりに、自分が生まれた抑圧された環境を生き残った者が、指導者になるだろう。同時に二つの世界を生きる人々、すなわち多数派の文化において否認された集団の一員である人々は、犠牲者になることを強いられているだけでなく、生き残って多文化の指導者になることをさだめられている。私たちは、そのような人々の強運、知性、自覚、そして愛といった助けを必要としている。他のどこに人権を守ろうとする意志と自覚を持った長老を見出すことができるだろうか」

周縁化された人たちの役割をここまで書いてるところがとても素敵だと思う。

一方、毎週だれかが炎上してみんなが怒って、それをずっと繰り返して、外交的な謝罪があって、というサイクルは、当事者を犠牲者役割に押し込めている感じがある。

自分が炎上案件に疲弊するのは、怒っているからではなく、自分が他の人と同様には怒っていないからだ。それは悪いことばかりでもなく、むしろいろんな感情になってしまうことを含めて活かせるような関わりができたらいいんだろうけど。

登場人物が変わるだけでずっと同じ番組を見せられてるような気分しないか?チャンネルを変えても同じストーリーが続くような。それは映し出しているテレビ自体がポンコツなんだよな。

世界を別のやり方でみる方法があることを思い返したい

 

 

 

 

 

ここにいることは最低で最強の抵抗

※死に関する話題を含みます。

 

昨日、イベント登壇直前に若い知り合いの訃報を耳にして泣きそうだった。病気だったという。イベント自体は完璧にこなした。実際に新刊について気心しれた仲間と語り合えるのはとてもうれしかった。悲しいことと、その他のいろんなことは同時に成り立ってしまう。 

以前にも似たような経験がある。このときは故人の母校である高校で教員研修をしなくてはならず、心が散々に乱れた(このときには自死だった)。宇佐美翔子さんが心配してついてきた。私は何事もなかったのように話を終えた。いかにもケロッとしている姿を見て「あーたは、いつも大丈夫なんだから」と見透かしたように翔子さんが言っていた。大丈夫に見えることと、大丈夫であることはもちろん別のことだ。いかにも翔子さんらしく、いかにも遠藤らしいエピソードだなという思い出。

『ミス・メジャー』という大好きな映画がある。80歳近いトランス女性のメジャーさんと、彼女をママと慕うトランスたちを描いたドキュメンタリー映画。みんなトランスであること、有色人種であることなどを理由に社会の中で散々な目にあっている。家族からもひどい目にあっている。そんな中、メジャーさんは大きな愛で彼女たちを迎え入れ、社会へのプロテストで娘たちを繋ぐ。このような最高の老人になりたいと私も思うが、悲しいことには、彼女の娘たちはママよりも先に若くして亡くなってしまうのだ。映画の最後にメジャーさんや、いろんなトランスの人たちが「I'm still fucking here」と言うシーンがある。ここにいることは最低で最強の抵抗。

冒頭の彼は、私が掲載された朝日新聞「ひと」欄の新聞記事の切り抜きをお守りのように持ち歩いていた。パスケースに入れているんだと最初にあった時話していた。さぞかし熱烈なファンなのかよと思いきや、初対面のテンションは普通だった(笑)。毎日新聞だと言うから、それは朝日新聞だよと訂正してあげた。

彼の夢は、自分の住んでいる街にLGBTの中高生の居場所を作ることだった。そのプロジェクトを代わりに実現することはできる。きっとこれからやる。

けれど、そこに彼がいないのでは、彼の夢が叶ったとは言えないね。

SNS上で政治的な発言をすること・しないこと

先日発売された『ソーシャルメディア・プリズム SNSはなぜヒトを過激にするのか?』はなかなかに面白かったので、感想のメモを残しておこうと思う。インターネットと社会運動の関係性について考える上で、示唆に富んだ一冊。

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同じ意見ばかり見て過激化する、は本当か

本書の一番の特徴は「ソーシャルメディアでは自分と似たような意見の人たちばかりが目にふれるよう設計されており、それによって意見が両極化する」という、いわゆるエコーチェンバー批判に対して、疑問を呈しているところだ。自分とは異なる意見に触れさせることによってエコーチェンバーから抜け出し、多様な見方が促進されるのかどうか、著者たちは実際にボットを使って実験をしている。

アメリカの民主党派に共和党派ボット、共和党派に民主党派ボットを1ヶ月間フォローさせた結果、共和党派の人たちは、ボットに注目していた人ほど考え方がより保守的になっていた(民主党派の結果はそこまで劇的ではなく、平均するとリベラル度合いが若干強まったが統計的に優位ではなかったそうだが)。

例として、わずかに民主党派だったパティの経験が紹介される。共和党派ボットをフォローした後は、以前は反移民の立場を表明していたパティはトランプによる国境の壁に強く反対するようになり、自分を「確固たる民主党派」と形容するように変わっていた。経済問題など、それまでほとんど知らなかった事柄についても党派的な意見を新たに育んだ。エコーチェンバーを壊されたときの状況を、パティは自身のアイデンティティへの攻撃として経験した。リツイートされてきた中道右派からの穏健なメッセージには注目せず、もっと過激な保守派数名による最悪の部類の攻撃=民主党派への粗野な、あるいは偏見に訴える攻撃に心を奪われた。

相手陣営の極端なヤツを「代表」だとみなす癖

攻撃をきっかけにパティはツイッターで初めて政治について投稿した。民主党派だとわかるような投稿をするとパティは個人攻撃を受けた。こうしてパティは党派戦争に足を踏み入んでいく。パティはリベラル派の論点で自分を弁護するようになり、自分の意見を党の見解にあわせることを学んでいった。大抵の人はパティと同じだ、と本書では述べられる。

SNS上で相手方と接触する経験は、自分の所属する党派的なアイデンティティを刺激するが、新たな考えへの関心を呼び起こさなかった。

ソーシャルメディアは18世紀のサロンではなくだだっ広いサッカーフィールドであり、そこで私たちの本能を導いているのは着ているユニフォームの色であって各人の前頭前皮質ではない/ 政治的アイデンティティが各自の意見を導くので、その逆ではない

という指摘は、インターネットによって人間の対話が促進されるようになり〜という、SNS黎明期の理想を完全にぶちこわすようなビターな記述だが、実際にその通りなのだろうなと個人的には同意する。

なお、異なる意見が対立するとき、私たちは相手陣営のマイルドな人たちではなく、極端なヤツに注目して「あいつらはめちゃくちゃだ」と言いがちであるらしい。

この話、最近自分の周りでも心当たりがあった。この前、ある人が「国葬反対している左翼」に怒っていたので話を聞いてみた。安倍昭恵に嫌がらせの電話をしている人間がいるので許せない、左翼はそういうことをする、と話していた。情報源はたぶんSNSで、真偽のほとは知らない。こういう話はデマの場合もあるし、真実の場合もある。遺族に嫌がらせする人間はどんな思想があろうがクズだということには同意する。でも、国葬賛成派の中にもいろんなクズもいて、クズの存在によって国葬反対派/賛成派をひとくくりに語ることはできない。

私はトランスジェンダーの権利擁護の活動をしている人間だが、トランスジェンダー(外国人でも障害者でも生活保護受給者でも、なんでも置き換え可能だが)を攻撃する人が、こんなクズなトランスもいると主張するのも同じ話だと思う。真偽のほどは知らない。本当のこともあれば、デマのこともあるだろう。でも、その議論自体で全体をくくることはできない。

このような議論は、差別に反対する人たちもまた学ぶところがある。トランスの権利についてよくわからない/どちらかといえば現時点では否定的だが意見を構成するに足る情報を得ていない/今後変わる余地がある学習中の人を、ゴリゴリのトランスヘイターと同じ言葉で一括りにするのには慎重であったほうがいいように私は考える。犬笛的なコンテンツによくわからず「いいね」をするのと、自分が差別的なツイートをはじめるようになるのには違いがある。

www.bbc.com

穏健派はミュートされている

最後に、本書の重要な指摘として「ソーシャルメディアにおける穏健派はミュートされている=面倒にまきこまれないように沈黙している」ことがあげられる。どちらからも矢が飛んでくるのだから黙っておいたほうがよい。得られることよりもリスクのほうがはるかに大きい。

既存のSNSでは(特にTwitterを念頭に置いていると思われるが)、アルゴリズムの設計上、過激な投稿をして、相手陣営を怒らせると自分の陣営からのリアクション=報酬がもらえる仕組みになっていて、もはや相手の考えを変えさせようとしてコミュニケーションを取る場所ではなくなっている。自分の陣営に疑いのまなざしを向けるような投稿をすると、これもまた危ない。本書では、相手陣営に嫌がらせをして怒らせているユーザーについての分析もあって面白いので、関心のある人はぜひどうぞ。

インターネットではひどい書き込みほど拡散されて、学びを深めるコンテンツは埋もれてしまうから反差別のコミュニケーションがそもそも難しい、という話は以前別のエントリーでも書いたが、ここでも似たような話が指摘されている。

endomameta.hatenablog.com

既存のソーシャルメディアがあまりに期待できないので、本書は最後に、著者らが対話を促進するための新しいプラットフォームを立ち上げるところで終わる。相手をやりこめるのではなく、学び合うことにより報酬系が得られるシステムになっており、既存のSNSよりはだいぶマシと思われるが、この新しいサービスがどこまで支持されるのかは不明だ。このようにすれば解決する、というスッキリした答えがでない本だが、それがリアルといったところだろう。

新刊が明日発売!これまでの本を振り返る

9月2日に、新しくまた本が出ます。

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今度の本は教員向けです。単著が出るのは5冊目。

似たような名前の本ばかり出してると思われそうなので、聞かれそうなことをまとめてみた。

Q.既刊『先生と親のためのLGBTガイド』とはどうちがいますか

タイトルが似てるけど今回の本は事例がめちゃくちゃ豊富です。2016年に『先生と〜』を出したときには、ひとりでコツコツ書き溜めた感があるけど、今回の本は半分が実際に取り組んでいる学校や生徒、NPOの実践についてのインタビューなので、これから実際に学校現場を変えていこうという人には真似がしやすいんじゃないかと思います。

背景として教育現場での授業実践や校則の見直しが2010年代前半に比べて、格段と増えて行ったことがあります。

Q.『先生と親のためのLGBTガイド』を持ってるので、今回は買わなくていいですか?

買ってください。血と汗の結晶です。

Q.執筆の裏話を教えてください

2年間の連載がベースになった本ですが、毎月連載がきつすぎて途中から締切日に書いているのが常態化へ。2021年の目標が「今年は連載をことわる」だったのに、あと1年がんばれば書籍化すると聞いて、秒で首をたてに振ってしまいました。ちょろかったのは、執筆過程ではなく私でした。

Q.本ってどうやったら出せるんですか。出したいです!

よく聞かれる質問なんですが、これまでの本は全部出版社から話をもらいました。参考にならないですね。参考になるとしたら、人に自分の文章を読んでもらう機会をとにかく作ることでしょうか。ブログやHPに書き散らしていた文章を出版社の人がみつけて、最初の本が出ました。SNSが便利な時代ですが、ある程度まとまった文章を書く習慣をつけると良いと思います。

Q.タイトルってどうやって決めるんですか?

毎回出版社の人が考えてくれます。私はネーミングセンスがないので、言われるがままにしています。

これまで出した本について振り返る!

せっかくなんで振り返ってみましょう。まずは2016年に出したこちら

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とにかく分厚い本です。著者割でたくさん買い取って自分や友人で500冊ぐらいは手売りしました。QA形式になってたり、普段の言動のふりかえりチェックシートがついていたりして、とにかく親切なつくりですね。はじめて本が出た時はとても感激して両親にプレゼントしました。 

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これまで出した中でいちばん赤裸々なやつですね。人を思いっきり笑わせたいし、泣かせてみたいという意欲があふれてました。本当はどの作品でも爆笑させたいんですが、なかなか「先生のための〜」とかだとそうはならないのが歯がゆいですね。

20代の頃に友達がやたら死んでしまった時期があって、自分自身も子ども時代のいろんなしんどさがあって、この本が出たときにはようやくいろんなことを忘れられると思った記憶があります。外付けハードディスクに似ているというか。著者にとってこれを書くのが必要で、だけどあとになってから絶対に読み返したくはないんだろうなという書籍がときどきあるけど、そんな本(最近だと崔実さんの『ジニのパズル』に似たようなもの感じました。向こうは受賞作品ですが)。

この本を出してから講演のときに自分の子ども時代の経験を語ることは減り、制服を着る悪夢を見る機会が減ったのはよかった!

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タイトルはまじめだけど、そこそこ笑わせにいっているやつ。もう少し不真面目なタイトルが良かったんじゃないかと思うけど、広辞苑LGBTの説明が間違ってた騒動とか、テレビでのLGBTの表現についてとか、日頃めにふれるニュースをネタに性の多様性について考えるのにはとても良いんじゃないかと思う本。ベースになっているのはWezzyで連載していた「トランス男子のフェミな日常」。当該連載をはじめた当初はトランスヘイトの昨今の現状は夢にもみていなかったので、一寸先は闇とはこのことですな。第二章はすべてトランスジェンダーフェミニズムについて書かれています。

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10代向けの本は、難しい内容を単純化することはないけれど、大人だったらスルーしてしまうような哲学的な問いに対してきちんと向き合う必要はあるなと思って書いた本。第二章の「個性」とか、登場人物がLGBTのキャラクターですらなくて、この本は本当にLGBTについて書いている本なのか混乱した読者もいたらしく、しめしめと思った。ここに出てくる架空の登場人物は基本的にはカタカナなのだが、4章に出てくるトランスジェンダーのジュンの恋人・桜だけが漢字になっている。フツーの彼氏になれずに思い悩めるジュンに対し、フツーに興味がなく、ジュン君を弟のように可愛がっている桜だけがこの本に出てくるユースの中で「大人」で、だから桜だけが漢字・・というのは後付けの理由であり、実際には表記ユレです。

 

他にも共著だと『思春期サバイバル』シリーズがあり、こちらも近く最終巻が出ます。そう、第3巻あるんです。お楽しみに!

マッサージ屋でsirと呼ばれた話

この前バンコクを旅する機会があり、マッサージ屋にいった。赤の他人に自分の身体を触られること自体がなかなかハードルが高く、いろんなメニューがあったが、自分が選べるのはフットマッサージ一択だった。

私の外見は男性にも女性にも見える。そのため自分がこの場に置いてどう認識されているのかは、いつもアンテナを張っているところがある。国によってもちがう。サンフランシスコでは楽勝だが台湾では苦戦する(童顔で小柄なアジア人に対する眼差しが分かれるのだろう)。そのため行ったことのない国に行くときには緊張する。

受付の人ははじめ私をsirと呼び、男性と思われていることがわかった。30分間、足をこねくり回してもやっぱりsirと呼んでくれたのでありがたかった。足のサイズで女性だと思われたら嫌だなと心配していた自分に気がついた。このような細かいところでの心配が日常生活の中でいろいろとある。

ここにある身体に対して、自分自身や他人がどう意味付けするのかは、場面や関係性、人生のときどきによって一律でない。10代の頃にはトランスジェンダーであることは罰ゲームなのだと思っていた。自分の肉体を憎むことでいっぱいだった当時は遺伝子のような単一の見方で自分の身体を捉えていた。自分の身体のせいでありとあらゆる間違いが生じ、大変な負債を背負わされていると絶望していた。

それが時間を経て、ひとつの基準で身体をとらえなくても良いのがだんだんわかっていった。

他人は適当だった。私に筋肉がなくても定食屋の店員はたくさんご飯を盛る。男女でご飯の盛り方を変える接客の是非はさておき、何の説明も必要とせず男性として扱われうることはホッとする(いつもそうだというわけではない)。

声の高さもどうせ世界で一番気にしているのは自分だ。未だにラジオに出た自分の声を聞くと「こんな声をしているんだな」と思い、正直、そんな好きってわけじゃない。でも貯金のある私は別にやろうと思えばいつだってホルモン療法はできる。医療アクセスしたくてもできなかった10代の頃とは心の余裕がちがう。

多くのトランスは恋人との関係に悩むが、私の交際相手は私の身体的ステータスにまったく興味がない。本当にどうでも良いと思われている。職場でもし誰かが代名詞を間違えても同僚が直してくれるだろう。それは私の外見の問題ではなく、代名詞を間違えた人の問題だ。

こうしてトランスであることはいつのまにか罰ゲームではなくなっていた。ただ、そのいくらかは細やかな諦めや心配と隣り合わせの生活がもはや当たり前になり、シスジェンダーであれば当然のことが同じようにできないことに慣れてしまった結果かもしれない。

もしも外見がシスジェンダーのように見えれば、自分が他者の目にどううつるのか考えることもなく街を移動できる。プールやジムにも行きやすくなるだろう。マッサージでもみほぐす範囲も増える。

それらの中には身体的トランジションに伴い可能になることもあれば、自分には一生手に入らないものもあるのだろう。

長く書いたが、ここに確かにあるはずの体は、ときどき人によって解釈のちがう詩みたいなもんである。