バラバラに、ともに。遠藤まめたのブログ

LGBTの子ども・若者支援に取り組む30代トランスの雑記帳です

炎上案件と当事者の役割(ロール)

LGBTに関するさまざまななニュースのコメントをメディアから求められる機会が多い。政治がらみの案件以外は、自分があまり怒っていないことに最近気がついた。自分が炎上してしんどかったことを思い出したり、コミュニティ全体が不寛容だと思われることへの心配、やらかした担当者の無知への同情など、色んな気持ちが渦巻いている。

ただ求められるのは一言コメントで、ロッキンオンみたいな2万字インタビューじゃない。 当事者の役割は怒りだったり傷つきだったりと狭く理解されている。「自分が次は炎上するかもってビビりました」なんてコメントは絶対に採用されないしね。 だけど、こういう話も安全にできたらいいよね。

ミンデルが「紛争の心理学」でこんなことを書いている。

「近い将来、教育や階級やお金を有する者が、有能な指導者になるのではなくなるだろう。代わりに、自分が生まれた抑圧された環境を生き残った者が、指導者になるだろう。同時に二つの世界を生きる人々、すなわち多数派の文化において否認された集団の一員である人々は、犠牲者になることを強いられているだけでなく、生き残って多文化の指導者になることをさだめられている。私たちは、そのような人々の強運、知性、自覚、そして愛といった助けを必要としている。他のどこに人権を守ろうとする意志と自覚を持った長老を見出すことができるだろうか」

周縁化された人たちの役割をここまで書いてるところがとても素敵だと思う。

一方、毎週だれかが炎上してみんなが怒って、それをずっと繰り返して、外交的な謝罪があって、というサイクルは、当事者を犠牲者役割に押し込めている感じがある。

自分が炎上案件に疲弊するのは、怒っているからではなく、自分が他の人と同様には怒っていないからだ。それは悪いことばかりでもなく、むしろいろんな感情になってしまうことを含めて活かせるような関わりができたらいいんだろうけど。

登場人物が変わるだけでずっと同じ番組を見せられてるような気分しないか?チャンネルを変えても同じストーリーが続くような。それは映し出しているテレビ自体がポンコツなんだよな。

世界を別のやり方でみる方法があることを思い返したい