バラバラに、ともに。遠藤まめたのブログ

LGBTの子ども・若者支援に取り組む30代トランスの雑記帳です

『ツイッターと催涙ガス: ネット時代の政治運動における強さと脆さ』。

社会運動について論じた本で何が面白かった?という話を知り合いとして楽しかったので、久々にブログ記事にしてみる。

まずは『ツイッター催涙ガス: ネット時代の政治運動における強さと脆さ』。

インターネット使って社会運動やってる全ての人は必読と思う。ネット時代では社会運動を起こすのは容易になったのに成功させることが難しくなっているのではないか(アラブの春などみても長期的にうまくいっている例が少ない)、という問題意識で書かれた本。わりと分厚いので、忙しい人はTEDトークがあるので、こちらをみてもいいかも。

www.ted.com

 

キング牧師の時代に、スプレッドシートもメールもないのに10万人もデモに動員できた(どの地区から何人来て、帰りのバスはここから出るので間に合うように乗ってほしいとか、小競り合いになるとすぐ逮捕されるので最新型のスピーカーを手配して指示が出しやすいようにしていた)の意味と、今の時代にスマホ1つで1週間で10万人動員することの意味合いは全然違うという話。

アラブの春で起きていたことの検証と、60年代のアメリカの公民権運動の対比が面白い。公民権運動における長期にわたる組織化の苦労、ローザパークスがバスの人種隔離に抗議して逮捕された最初の人だったわけではなく、適切な人物が現れるタイミングまで待つことを運動の方針として決めていたこと、などが語られていく(有名なワシントン大行進のロジを担当したベイヤード・ラスティンの映画が最近ネトフリにあってこちらも面白かった)。

それに対して、ネット時代の運動ではリーダーシップ不在であることこそが力になると誤解されており、そのことによって当初と状況が変わった際に戦術のフリーズに陥ってしまう弱点があると筆者は指摘する。

「どのような運動でも参加者間の意見の相違は避け難いが、それに対処するための意思決定の仕組みが意図的に、選択によって、あるいは運動の進化の結果として、存在しない。加えて、選挙や制度に依存する運動のあり方に対する不信と、文化的な目標としての抗議や占拠の盛り上がり(人生を肯定するスペース)が組み合わさると、人々を惹きつけた最初の戦術が繰り返し使われることになってしまう。同じ人生の肯定を求め、本当の合意の唯一の瞬間に戻る方法だからである。(p.105)」

社会運動では「参加すること」自体が魅力である。運動に加わることで人々は自分の居場所や役割、出番を得て、自分の人生が肯定されるような感覚を覚えることがある。それは強みでもあり、弱みにもなってしまう。

表面上のリーダー不在は、事実上のリーダーシップの登場を止められない。SNSによって、現代の運動では事実上のスポークスマンが生み出される。その人は運動が望むような注目は集めることができても、事実上のスポークスマンとしての運動内部での役割認知がないので、影響力を駆使しようとすると内部からの激しい、大っぴらな攻撃を受ける(過去の議論のリツートやスクショなどを蒸し返されたり、日本でもよくある)。内輪揉めは運動内の緊張、二極化を深める。また最も目立つ人々を外部からの攻撃に晒すことになる。

本書では、運動が持ちうる力として、3つの能力に注目がされる。

1. 物語の能力

いわゆるナラティブの力で、デジタルツールによって大幅に強化されるようになったのはここである。不満の救済を求めて注目を集め、より広い市民に対して自分たちの声を聞いてもらい、正当であると認めてもらい、反応してもらう能力のこと。どこで誰がどんな経験をして、なぜこのことが重要なのかを注目させる。以前はマスメディアしかなく、黙殺されていたようなことでも、今ではスマホがある。ただ検閲されたり、フェイクニュースを撒かれたりすることがあるし、最も派手な人や目立つ人、「売名行為」をメディアがピックアップし、センセーショナルに取り上げるなどの弱点もある。

売名行為が起きることそのものは論点ではなく(おそらくは防ぎようがないから、という意味だろう)そのような行為をどうコントロールし、どの方向に向け、運動の舵取りをしていくのかという戦略か論点であると筆者は述べる。

2.  打破の能力

注目を集め、はっきりした主張をし、相手の業務が通常通り行われるのを阻止したり、事業を崩壊させたり、事業の打破を長期にわたって維持する能力を指す。バス・ボイコットもそうだし、本書ではACT UPについて、大統領候補に血を表す赤いペンキを投げつけるなど”売名”行為をして注目を集めつつ、政治家や役人へのロビーも行っており、物語の能力と打破の能力のハイブリッド型として評価されている。

3. 選挙・制度の能力

選挙結果を示して、政治家や政策立案者に確実に脅威を与える能力のこと。代表性民主主義が失敗するのをみてきた人は、選挙を警戒する。あるいは積極的に選挙政治を回避する運動も出てくる。結果として金と力のある人たちが政治家をコントロールする力を増してしまう。本書ではティー・パーティーが代表者不在の組織ながら選挙に注力して成果を上げた様子について触れらている。

感想

ネットを使った社会運動の可能性と限界について、ここまで言語化してマニアックに書いている本をあまりみないので、このような論評がもっと増えたらいいなと考えている。2000年代にインターネットが好きで、社会問題に関心があった多くの人たちで、今のSNSとアクティズムの関係性を無邪気に肯定できる人はほとんどいないのではないか、と思うが、結局のところBLMの共同代表などもいっているようにリアルの地道な組織化が大事だよ、という話は多くの人たちがしているところだし、自分もやっぱりそう思う。

日本だと政権交代が少ないので「3. 選挙・制度の能力」にフォーカスすると主義主張が保守化し、大胆なことが言えなくなったり、そもそも参画しようというやる気がある人が少なくなる気もしている。1〜3の枠組み以外にも、新しい仕組みを自分たちの力で構築する(お上に頼るのではなく自分たちで共同体を創出するとか)とかは巻き込みの伸び代として大きいようにも思う。

2:打破については、『パイプライン爆破法』などで過去の運動における手荒なボイコットの歴史について触れられているけれど、日本ではドン引きされちゃう可能性が高いので、やり方を選ぶだろうな。

あと、これを書きながら思ったのは、ネット以前のやり方が結局大事(特に政治家はそんなにネット見てない)というのはもちろんそうなんだけど、ネット時代だからこそ運動体におけるリーダーシップのあり方や、センセーショリズムや運動内の極化をどう防ぐかが重要になってくるだろうなということ。一つの処方箋があるわけではないので、やりながら考えていくしかないんだろう。

 

気が向いたら書評シリーズ続けます。