バラバラに、ともに。遠藤まめたのブログ

LGBTの子ども・若者支援に取り組む30代トランスの雑記帳です

SNS上で政治的な発言をすること・しないこと

先日発売された『ソーシャルメディア・プリズム SNSはなぜヒトを過激にするのか?』はなかなかに面白かったので、感想のメモを残しておこうと思う。インターネットと社会運動の関係性について考える上で、示唆に富んだ一冊。

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同じ意見ばかり見て過激化する、は本当か

本書の一番の特徴は「ソーシャルメディアでは自分と似たような意見の人たちばかりが目にふれるよう設計されており、それによって意見が両極化する」という、いわゆるエコーチェンバー批判に対して、疑問を呈しているところだ。自分とは異なる意見に触れさせることによってエコーチェンバーから抜け出し、多様な見方が促進されるのかどうか、著者たちは実際にボットを使って実験をしている。

アメリカの民主党派に共和党派ボット、共和党派に民主党派ボットを1ヶ月間フォローさせた結果、共和党派の人たちは、ボットに注目していた人ほど考え方がより保守的になっていた(民主党派の結果はそこまで劇的ではなく、平均するとリベラル度合いが若干強まったが統計的に優位ではなかったそうだが)。

例として、わずかに民主党派だったパティの経験が紹介される。共和党派ボットをフォローした後は、以前は反移民の立場を表明していたパティはトランプによる国境の壁に強く反対するようになり、自分を「確固たる民主党派」と形容するように変わっていた。経済問題など、それまでほとんど知らなかった事柄についても党派的な意見を新たに育んだ。エコーチェンバーを壊されたときの状況を、パティは自身のアイデンティティへの攻撃として経験した。リツイートされてきた中道右派からの穏健なメッセージには注目せず、もっと過激な保守派数名による最悪の部類の攻撃=民主党派への粗野な、あるいは偏見に訴える攻撃に心を奪われた。

相手陣営の極端なヤツを「代表」だとみなす癖

攻撃をきっかけにパティはツイッターで初めて政治について投稿した。民主党派だとわかるような投稿をするとパティは個人攻撃を受けた。こうしてパティは党派戦争に足を踏み入んでいく。パティはリベラル派の論点で自分を弁護するようになり、自分の意見を党の見解にあわせることを学んでいった。大抵の人はパティと同じだ、と本書では述べられる。

SNS上で相手方と接触する経験は、自分の所属する党派的なアイデンティティを刺激するが、新たな考えへの関心を呼び起こさなかった。

ソーシャルメディアは18世紀のサロンではなくだだっ広いサッカーフィールドであり、そこで私たちの本能を導いているのは着ているユニフォームの色であって各人の前頭前皮質ではない/ 政治的アイデンティティが各自の意見を導くので、その逆ではない

という指摘は、インターネットによって人間の対話が促進されるようになり〜という、SNS黎明期の理想を完全にぶちこわすようなビターな記述だが、実際にその通りなのだろうなと個人的には同意する。

なお、異なる意見が対立するとき、私たちは相手陣営のマイルドな人たちではなく、極端なヤツに注目して「あいつらはめちゃくちゃだ」と言いがちであるらしい。

この話、最近自分の周りでも心当たりがあった。この前、ある人が「国葬反対している左翼」に怒っていたので話を聞いてみた。安倍昭恵に嫌がらせの電話をしている人間がいるので許せない、左翼はそういうことをする、と話していた。情報源はたぶんSNSで、真偽のほとは知らない。こういう話はデマの場合もあるし、真実の場合もある。遺族に嫌がらせする人間はどんな思想があろうがクズだということには同意する。でも、国葬賛成派の中にもいろんなクズもいて、クズの存在によって国葬反対派/賛成派をひとくくりに語ることはできない。

私はトランスジェンダーの権利擁護の活動をしている人間だが、トランスジェンダー(外国人でも障害者でも生活保護受給者でも、なんでも置き換え可能だが)を攻撃する人が、こんなクズなトランスもいると主張するのも同じ話だと思う。真偽のほどは知らない。本当のこともあれば、デマのこともあるだろう。でも、その議論自体で全体をくくることはできない。

このような議論は、差別に反対する人たちもまた学ぶところがある。トランスの権利についてよくわからない/どちらかといえば現時点では否定的だが意見を構成するに足る情報を得ていない/今後変わる余地がある学習中の人を、ゴリゴリのトランスヘイターと同じ言葉で一括りにするのには慎重であったほうがいいように私は考える。犬笛的なコンテンツによくわからず「いいね」をするのと、自分が差別的なツイートをはじめるようになるのには違いがある。

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穏健派はミュートされている

最後に、本書の重要な指摘として「ソーシャルメディアにおける穏健派はミュートされている=面倒にまきこまれないように沈黙している」ことがあげられる。どちらからも矢が飛んでくるのだから黙っておいたほうがよい。得られることよりもリスクのほうがはるかに大きい。

既存のSNSでは(特にTwitterを念頭に置いていると思われるが)、アルゴリズムの設計上、過激な投稿をして、相手陣営を怒らせると自分の陣営からのリアクション=報酬がもらえる仕組みになっていて、もはや相手の考えを変えさせようとしてコミュニケーションを取る場所ではなくなっている。自分の陣営に疑いのまなざしを向けるような投稿をすると、これもまた危ない。本書では、相手陣営に嫌がらせをして怒らせているユーザーについての分析もあって面白いので、関心のある人はぜひどうぞ。

インターネットではひどい書き込みほど拡散されて、学びを深めるコンテンツは埋もれてしまうから反差別のコミュニケーションがそもそも難しい、という話は以前別のエントリーでも書いたが、ここでも似たような話が指摘されている。

endomameta.hatenablog.com

既存のソーシャルメディアがあまりに期待できないので、本書は最後に、著者らが対話を促進するための新しいプラットフォームを立ち上げるところで終わる。相手をやりこめるのではなく、学び合うことにより報酬系が得られるシステムになっており、既存のSNSよりはだいぶマシと思われるが、この新しいサービスがどこまで支持されるのかは不明だ。このようにすれば解決する、というスッキリした答えがでない本だが、それがリアルといったところだろう。