バラバラに、ともに。遠藤まめたのブログ

LGBTの子ども・若者支援に取り組む30代トランスの雑記帳です

キング牧師の偉大さをわりと後になってから知った話

大人になってから大学のオンラインコースで勉強させてもらう機会が何度かあり、そのうちの1回が、キング牧師とも一緒に公民権運動をやっていたマーシャル・ガンツ先生のコミュニティ・オーガナイジングの授業だった。当時あんまり英語力もなくて理解もあんまりおぼつかなかったが、そこでアメリカの公民権運動についてのイメージが変わった。

コミュニティ・オーガナイジングとは

コミュニティ・オーガナイジングと聞いてすぐに何のことだかわかる人は少ないと思うので簡単に説明をしておこう。超シンプルに言えば「目標を達成するために、どうやって運動を大きくして、人を巻き込んでいくか」というやり方のことで、アメリカの社会運動ではいろんなところにコミュニティ・オーガナイジングの手法が使われている。

運動を大きくするというのは、単なる動員ではない。SNSで誰か(スーパーリーダー)が呼びかけて、みんなが集まったとする。単一のアクションへの反応として、みんな(フォロワー)が同じことをすることは、しばしば動員だ。そうじゃなくてコミュニティ・オーガナイジングには、たくさんのリーダーがいる。たくさんリーダーたちは、周りの人たちにも働きかける。

自分が習ったマーシャル・ガンツ先生の授業では、リーダーとは「他の誰かのために責任を取る」人のことを指していた。自分のためだけに生活していくことは容易かもしれないが、私はそれを選ばないぞ、という姿勢のことだ。私にとって、なんでこれが大事なのかを自分の言葉として周囲に表明することができる。そして、周りの人に「一緒にこれをやろう」と呼びかけ、運動にまきこむことができる。

もし集会に人を集めることが大事なのだとしたら、リーダーたちは少なくとも7人の知り合いに声をかける。そして、声をかけるだけじゃなくて「あなたはこのことについてどう思うの?」とか、人間らしい双方向のコミュニケーションをする。

リーダーシップの定義を見直して、たくさんのリーダーが生まれるようにどうしたらいいか考える、というのは自分にはとても新鮮だった。

 

キングたちの偉大さの意味

マーシャル・ガンツ先生はキング牧師らが展開した公民権運動に実際に関わった人で、そこでの戦略を学術的に体系化したことで知られている。必然的に講座の中では、公民権運動のエピソードがいろいろと出てきた。

自分はそれまで、キング牧師といえば、いかにも偉人の伝記に出てくる人、非暴力のボクシ、偉大な演説をした人ぐらいのイメージしかなかったのだが、かれらがいかに戦略的にも集団としても最強だったかということを、だんだん理解するようになった。

たとえば、モンゴメリのバス・ボイコットでも、あそこで起きていたことは単にローザ・パークスが疲れていて白人に席を譲りたくなかった、という話ではなかったことを知った。ローザ・パークス以外にも逮捕されている人はいたけれど、ローザ・パークスはとても人望があり、運動のシンボルとしてふさわしい人だったので、彼女の逮捕は「特別」になった。このような事件が生じたとき、これをチャンスとして中長期にわたるキャンペーンを組み立てられたことがかれらの強さだった。

逮捕されるリスクとセットで、運動のチラシを印刷した人がたくさんいて、バスの代わりに乗合の車をそれぞれ手配しあえる人がいて、死ぬリスクを犯した人がたくさんいて、10万人のワシントン大行進は一つの形態にしか過ぎなかった。

 

21世紀の我々が考えたいこと

ネットもない時代に、少しでも乱れたら一触即発で逮捕になるような10万人のデモを、「誰々は何時に、ここのバスから帰ること」などと緻密にロジスティックを組めるだけの力があれば、そして1年間にわたるバスボイコット活動ができる力があれば、次にはいったい何をしでかすのか権力者にとっては恐怖でしかなかったわけだ。

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オバマ夫妻が制作に関わった映画『ラスティン: ワシントンの「あの日」を作った男』は運動の教科書みたいだから、関心のある人はぜひ観てほしい。ロジスティックの鬼だったラスティンは、男性同性愛者として(当時は犯罪と見做されていたから)逮捕され、活動のクレジットを長年得られなかった人でもある。

これに対し、現在の10万人は、ハッシュタグですぐに集まるが、集まったときが活動のピークであり、運動の方針転換など変化にたえうるキャパシティがないからその後しぼんでしまうことと『Twitterと催涙ガス』の著者ジーナップ・トゥフェックチーは指摘している。

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(このブログでも何度か紹介した動画かもしれないけど貼っておく)。

ただ、SNSを使ったアクティビズムが全部弱いのかというと、そう結論してしまうのも気が早いように思う。

たとえばブラック・ライブズ・マターのリーダーたちは、自分たちは突然沸いたハッシュタグ・アクティビズムではなく、地元の人たちを訪問しては仲間を広げてきたコミュニティ・オーガナイジングの集団なんだということを、著作などで強調してもいる。両方の部分がある、といった感じだろうか。

先日当選したNYのマムダニ市長も、インスタにリアクションを行うとボランティアに組織化され、個別訪問などを一緒にやることになった人がたくさんいた。どう組み合わせるかが大事ということだろう。

どう地道なつながりを展開していくか、といったことはずっと考えていることだが、長くなりそうなので、いったん今日はここまで。

 

アライスペクトラム 社会運動に人をまきこむヒント

最近海外のいろんな社会運動関係のウェビナーで目にする機会がある「アライ・スペクトラム」、日本語圏ではあまり見ないので、自分なりに理解したものを紹介することにした。

アライというのは理解者・支援者などと日本だと翻訳されることがあるが、ざっくりいうと「味方になってがんばってくれる人」のことだ。

桃太郎における猿、きじ、犬などをイメージしてもらえるといいだろう。

鬼を一人で倒すことはできないが、仲間がいたら勝てるかもしれない。みんなが知っている物語だ。

スペクトラムというのは、グラデーションみたいに0か100かではない連続体という意味。

アライ・スペクトラムを日本語に訳すとしたら「味方のグラデーション」みたいな感じだろうか。味方だけではなくて、敵にもグラデーションがいる。味方か敵かよくわかんない人もいる。そういう「いろんな人がいる」というあたりまえのことを、社会問題について考えていると見失ってしまうから、あたりまえのことに名前をつけるのは大切なことだ。

*ちなみに桃太郎のメタファーを使っているので暫定的に「敵」という言葉を使っているが、ぶっそうなので、単に「反対派」でもいいだろう。

George Lakeyという人の図を和風にしてみた

反対側の「極」ばかり気にしない

このスペクトラムの中で、私たちが一番気にしがちなのは、はじっこにいる「敵の親分」だが、そこばかりにエネルギーを使うのは落とし穴だったりする。

この人たちは、どのみち変わらない。

中間層の人たちをどうやって味方サイドにつけるかや、消極的反対派ぐらいの人をどうやって相手サイドに引っ張られないようにするか、消極的賛成派の人にどうやって運動に加わってもらえるかをむしろ考える必要がある。

✅中間層や「極」じゃない人たちに関わろう

一歩、近づいたらすごいこと

赤鬼に対して「わりといいじゃん」と思っているおじいさんがいたとする。

桃太郎にとっては、ざっくりくくれば反対派にあたる。

おじいさんは、赤鬼とまったく意見が同じわけではないので、良いタイミングをねらえば、より消極的反対の方に動いてくれるかもしれない。

だが、おじいさんにきびだんごを渡すことで、猿、きじ、犬に加わって、参戦してくれるとは思えない。おじいさんは、あくまでスペクトラム上を少し味方側に移動したら、それで十分だ。

✅変化は少しずつおきる

きっかけや人間関係をどう作るか

一方で「一緒にこれやってくれませんか」と頼んだことがきっかけで、より味方へとスタンスが変わる人たちもいる。

さそわれる機会がなかっただけで、やってみたらおもしろくて、もっと関わりたくなって、気がついていたらどっぷり浸かっていた。

なんていうのは、趣味でも、進路・職業選択でも珍しくないことだろう。

ちょっとだけしか関われない人たちの集合体では、大きな変化を生み出すことは難しいけれど、継続的なコミットがあり、関わる人たちの信頼関係もある人たちの集合体は大きなことができる。

ちょっとだけしか関われない人たちが、それぞれ、もうちょっとだけスペクトラムを動いたら、強力なことができる。

「きっかけ」や信頼関係の構築と増強のことを「組織化」と呼んだりもするが、ここにどうエネルギーをさくかが超大事ということだ。

✅社会運動とは味方を増やし、育てるもの

以上みたいなことを、具体的な事例も含めて動画で説明をしてみた。

もし興味がある人は良ければこちらからどうぞ。

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映像中に出ているゾーイゼファー議員のエピソードはこちらにもまとまっています。

s-newscommons.com

ネットと社会運動についての勉強会

今度Queer Space Tokyoにて3月28日(土)にネットと社会運動をテーマに話すことになったので、イベントの宣伝がてら自分の原体験でもあるmixi時代に始まった(懐かしい)「多様な性にYES」のアクションや、このような「クラウド型」のアクションの話が2010年台にはいろいろ盛り上がったよね/でも、弱点や限界も指摘されており、合意形成の部分が(見えにくいけど)今も課題だよねという話をちょろっとだけニュースレターに書きました。 

mameta.theletter.jp

ニュースレターとこちらのブログの棲み分けに苦戦しており、どっちに何書くか迷うのですが、イベントの宣伝は両方にやった方がリーチすると思うので、こちらでも宣伝でした。

朴希沙『歴史的トラウマと日常を結ぶ心理臨床』とてもおすすめです

古い友人である朴希沙さんが、本を書いていると言うので出版をずっと楽しみにしていた。ようやく発売されたのが『歴史的トラウマと日常を結ぶ心理臨床』(明石書店)。

www.akashi.co.jp

それなりに分厚い本だが、全ての章がみっちりしていて3冊分ぐらいの濃さがある。

本書の冒頭は、筆者の生い立ちから始まる。社会運動に熱心だが、私生活は崩壊している家庭で育ってきた筆者は、子どもの頃、朝鮮人はいつ襲撃されるかわからないと思って登校カバンに固いものを詰めていた。背中から刺されるかもしれないと考えていたのだ。朝鮮人がどのような歴史を辿ってきたのか子どもながらに彼女は理解し、そのように身を守ろうとしなくてはいけなかった。同時に、ネグレクト家庭の子どもとしても彼女はサバイブする。

これまで朝鮮人がどのような歴史を辿ってきたかということ、現代社会が朝鮮人をどう扱うか、ということは個人に大きな影響を及ぼす。一方で、家庭や恋人、友人といったプライベートな領域や個人の生きづらさ、という視点は、一見するところ、当人の民族的バックグラウンドであることとは直接的には関係がないように見える部分もあるが、こちらも大きく影響を受けている。

実際のところ、仕事や勉強に一生懸命になりすぎるとか、怒りっぽいとか、家が大変とか、恋愛関係がカオスであるとか、そういう個人的な事柄にも、その人のマイノリティとしての背景は影響している。むしろ「在日コリアンの困難はこのようなものだ」と主流で語られるナラティブとははみ出したところの部分こそが、実は語り得なかったことでもある。ただでさえ日本社会からの風当たりがきついのに「そんな悩み」を話したら、外からどう言われるか目に見えているようなこと。仲間にも迷惑だと、朝鮮人のコミュニティでも言われるようなこと。こういう事柄を、どう扱ったらいいのか、ということをさまざまな角度から論じ、実践し、ひも解いていく。

「してもの会」の取り組み

冒頭に書いた通り、筆者と私は昔からの知り合いだ。就職したての頃、私は関西に一時期住んでいて、3章に出てくる在日コリアンと日本人による「それがたった一人のためだったとしても」の参加者でもあった。

「してもの会」は自分にとっても大変印象的で、学ぶことが多かったし、何より楽しかった。私は日本人の参加者でもあったから緊張感もあった。以前自分が出した本にも「してもの会」について何度かエッセイで書いている。ロッテリアでごはんを食べていたとき、私と、本書にも出てくる丸一俊介さんの二人だけが日本人なのに、なぜか私は日本人にカウントされておらず(たぶんトランスジェンダーというマイノリティ枠に入っていて忘れられていた)ちょっと可笑しかったことや、一方で日本人でもあるから、これまで意識してこなかったことに気がついたりもした。

在日コリアンの若者にとっての日常的な生きづらさ、しんどさについて、若者同士で集まって、ときにラップや踊り、曲なども混ぜながら「当事者研究」をしていく場は刺激的で、以前からもっと世の中に知られてほしいと思っていた。そのため、このように出版されたことがとにかくうれしい。「しても」の流行語として言及されている「うぎゃー感」(マジョリティが特権に気がついた際の心理的抵抗感と、新しい自己の発見による産声が混ざったもの)などは、2026年の日本社会にも幅ひろく流行してほしい。

マジョリティの人が「突きつけられる感」だけでなく、自己変容をある種の喜びと捉えられる感じは、多様性をめぐる今の日本社会の言説で、もう少しフォーカスされてもいいんじゃないかと思う(「特権があるから反省しましょう」みたいな後ろ向きなモードが社会運動界隈ではやや多すぎね、と個人的に感じる)。

トランスである自分がこの本をどう読んだか

臨床現場でどう差別が扱えるか、という点において、本書で在日コリアンについて書かれていることの多くは他のマイノリティについても当てはまるように思った。

カウンセラーや医師がLGBTに理解があるかわからないから訪問しづらい、カミングアウトできないという話はよく聞く。支援職の研修プログラムに、このようなマイノリティに関する課題を拡充すべし、というのは共通の、そして「わかりやすい」アジェンダでもある。

一方、個人的には、ここの部分が刺さった。

在日コリアンの運動が伝えてきた「在日コリアンの物語(コミュニティの中のドミナント・ストーリー)」は、勇ましく、痛みと抵抗に満ちたものである。それに対し、個々人の日常から浮かび上がってくるのは、あり意味「しょぼ」くもあり、力強くもある「欲望や思惑の主人公としての私」である。背景には在日コリアンであることが関係しながらも、「在日コリアンのドミナント・ストーリー」には回収できない「私」がいる。しかしそれがまた確かに「社会の中での」「在日コリアンとして」個々人が体験する「しょぼさ」であり、欲望であり、思惑であり、力強さであると気づいた時、分断されていた在日コリアンの歴史ー社会ー個人は繋がっていく」(pp121-122)

マイノリティである個々人が苦労している、一見わかりにくくて、しょぼくて格好悪い部分の話を、臨床心理でも扱えるのか、というある種の希望や夢を、本書によって描くことができた。

トランスで困っていることはありますか、と聞かれて、学校や職場、制度などに関する教科書的なわかりやすい答えを返すことは簡単だけれど(簡単であっては困るけども)、実際のところ私が困っているのは、たとえば「ワーカホリックであること」「自分が仕事していることの非現実感(トランスの人の就労困難さを知っているので)」だったりする。トランスの人が恋愛するとき、親になるとき、などなどでもさまざまなことが起きる。こういうことを拾い上げる場所が今後あり得るなら、助かる人がとてもいるんじゃないかと思った。

長くなりすぎてしまったので、いったんこの辺で。素晴らしい本なので、広く読まれてほしい。

 

社会運動内の恋愛でグループを崩壊させない方法(前半)

職場でも学校でも、サークル活動でも、同じコミュニティに帰属している人たちの中で誰かと誰かが付き合い始めると、若干の気まずさを覚えることがある。それは、その人たちが別れた時に面倒なことになるだろうなという予感である。

別れた後、どちらかが同じ場所にいられなくなり、その場から去ってしまう。あるいは互いに「こんなにひどいことをされた」と言い、コミュニティの中で「Aさん派」「Bさん派」が分裂し、周囲も混乱にまきこまれ、会が崩壊する。そういうことが頭をよぎる。

フェミニズムの運動の文脈では、自己解放と私生活は切り離せず、むしろ恋愛や友人関係などの中で自分や相手が解放されていくことは運動のコアである(なんせ「個人的なことは政治的なこと)ともみなされてきた。こういう私生活のことは「どうでもいい、よそでやってくれ」とは容易に切り捨てられない事象でもある。

LGBTQのコミュニティなど、そもそも人口が少ない/コミュニティが狭く、みんながみんなのことを知っている運動体では特にシビアだ。あの人に会いたくない、となっても他に行く場所はない。誰かが運動自体に参加できなくなる。

ディーン・スペードの最新刊『Love in a f*cked-up world how to build relationships,hook up, and raise hell together』では、社会運動を担う人たちのアキレス腱は「運動内での恋愛ないし人間関係」であると指摘して、どうしたらコミュニティの崩壊を防ぎながら、差別や抑圧に対抗できる仲間たちのつながりを育めるかというテーマで書かれている。

著者は著名なトランス活動家で、貧困問題やイスラエルの問題にも取り組んでおり日本では、彼の作った映画『これがピンクウォッシュ! シアトルの闘い』が上映されている。

この本があまりに面白く、普段は洋書などあまり読まない自分でも夢中になって読んでしまったので、なるほどなと思ったところが部分的に紹介したいと思ってブログ記事を書くことにした。

素晴らしい友人たちの私生活でのギャップ

社会を変えたいと思い、情熱や価値観を同じくして活動する仲間どうしが強く惹かれ合うことは驚くことではないと著者は言う。それは「禁止」できることでもない。しかし問題がたびたび起きてしまう。日頃はとても尊敬できる友人が、嫉妬や不安に振り回されてひどいことをしたり、恋愛に没頭して他の人間関係や社会的な責任を放棄したり・・・。

「あまりにリスクが高いから、この本を書くことにした。私たちは自分たちの最もラディカルで未来を描くような解放についての考えを、セックスや恋愛や、あらゆる生活の中での人間関係に反映できるし、そうしなくちゃいけない。私たちは今、これまで以上にお互いが必要だし、感情がたかぶったときでもどうやって一緒にやっていけるか学ばないといけない」(前書きより)

私生活において強い感情が湧きあがると、日頃の主張やポリシーは影をひそめ、ひどいことをしてしまう。そのギャップをどう埋めるかがテーマである。

恋愛にまつわる様々な迷信

著者は、恋愛にまつわる様々な迷信について言及していく。例えば本当の愛なら永遠に続くとか、恋愛や性的関係こそが最も重要な人間関係だとか、付き合うということは相手が自分のものになる(あるいは自分が相手のものになる)ことだとか、嫉妬や孤独、執着を「自然で、避けることができず、抵抗できないもの」とみなすこと、などだ。実際には「変化すること」は裏切りではないし、自動的にあなたをハッピーにしてくれる関係も存在しない。片思いも「やめられないもの」ではなく「やめられるもの」として、どうやったら関係性を鎮火させるかの7ステップなんかも後半では紹介されていて、その発想はなかったので面白いなと思いながら読んだ。

個人的にユニークだと思ったのは、現代社会では人が労働者としてやっていくには自分をマヒさせるしかなく、はっちゃけて良い場所が「恋愛やセックスだけ」だから、そこに全力で賭けにいく/ファンタジーに逃避して「気晴らし」しているすることが問題なのでは、という指摘。マヒと執着は双子の関係にあり、マヒもなんとかすべき、もっと日頃から人間性を回復しようというのが資本主義批判をしている著者らしい。

過去の研究によれば、昔の人は恋愛関係に対するニーズが今よりも低かったそうだ。資本主義社会のせいで私たちの恋愛に対する価値が高く見積もられ過ぎていると著者は述べる。

極端な考え方の放棄

恋愛規範以外にも、著者は人を善悪に分けたがる白黒思考について疑問を投げかける。私たちは子どもの頃から善人と悪人が出てくる物語を聞いて育ち、悪人は罰せられ、間違いを犯したら打ち捨てられるという文化(Disposability Culture)の中で育ってきた。こうして私たちは様々なタブーを内面化して、間違いを認めることへの恐怖を植え付けられている。

このような極端な世界の見方によって、葛藤が生じたときには自動的に「自分は最低だ」とか「彼女のせいだ」などと白黒で反応してしまいがちだ。

私たちは間違えることと非難や罰、恥の感覚がセットの社会で生きているので、「自分が最低かも」と思ったら、そのことを認めるよりも、むしろ防衛的になる。相手の言っていることには耳を傾けられなくなるし、要求にも応じられない。そうするとさらに事態は悪くなる。極端なものの見方は、社会によってインストールされた自動思考であり、実際には「私は100点でも0点でもない」ということを思い起こす必要がある。

誰かが傷ついてしまったとき、起きたことを矮小化して傷ついた人を責めるのでも、傷つけた人を追放して罰を与えるのでもない、「間」の解決法もある。起きたことを検証して、どうしたら同じことが起きないようにできるか、傷を治せるのか、といったことを考える。キャンセルされるかもしれないという恐怖が私たちに与えている影響について考えてみよう、と著者は言う。

他にどんなことが真実だろう

著者はワークシート「他にどんなことが真実だろう」もぜひ活用してほしいとサイトに公開している。公開しているので、ある程度翻訳してもいいかなと思い、下記紹介してみる。

https://www.deanspade.net/wp-content/uploads/2025/07/Dean-Spade-EP04-What-Else-Is-True-worksheet.pdf

  • 丸を二つ書いて、内側の円には自分が強く感じていること、外側にはその人やグループに関する他の事実を記入する。
  • 丸を二つ書いて、内側の円には自分が強く感じていること、外側には自分が知らないことを記入する。

内側には「あのグループはトランスの人を追い出したからクソ」、外側には「あのグループは去年薬物依存症の人が他のグループで追い出された時に声をあげていた」「あのグループの中にはトランスの人を追い出すのに反対した人もいるのかも」などが入るかもしれない。

  • 丸を二つ書いて、内側の円には自分が強く感じていること、外側にはこの状況と関係のない自分についての事実を書いてみる。

「私は親友から大切にされているし気にかけてもらってる」「今読んでる本が面白い」「トランス排除は絶対にダメだと同意してくれる友人がいる」などが外側に入るかもしれない。

その上で、自分の責任や、自分がコントロールできることはなんだろう。できないことはなんだろう。できないことを書き出した後に、破ってみるのもいいかもしれない。

また、次のことを振り返ってみよう

  • この状況は自分の過去の経験からくる「痛いところ」を刺激しているか
  • 前にも似たような役割に置かれたことがあるか?どんな感じだったか
  • この「痛いところ」や過去の経験についてどうやって自分に親切にできるか

長くなるので、いったんここまで。気が向いたとき後半も紹介します。

トランスジェンダー追悼の日2025

1日遅れとなったが昨日はトランスジェンダー追悼の日だった。ヘイトクライムでこの1年に殺害された何百人を覚える日だ。殺される人の多くはセックスワーカーで、有色人種で、いくつもの複合的な困難を抱えながら生きていた人だ。国によっては、トランスの人が生きられる性産業のコミュニティはマフィアと距離が近い。そもそも殺人の発生率が異常に高いところで生きないといけない人もいる。複合差別についても考えさせられる。

殺されなくても、自死という形で死ぬ当事者は多い。名前やディテールを書くこともできるが、気が滅入るので省略する。私としては、そんなことはわかりきっていて、トランスヘイトのひどい昨今は毎日が追悼の日みたいな気分だから目にするのもちょっと辟易する。

先日、亡くなったミス・メジャーのことを思う。78歳、大往生を遂げたビッグマザーだ。ストーンウォールの生き証人でもあった。

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*自動翻訳で日本語字幕も出ます

 

メジャーさんは、路上や刑務所で生きるしかないたくさんの孤独なトランス女性たちのママで、有色人種のトランスの活動家で、豪快な人だった。

何千もの電話番号が携帯に入っていて、娘たちに手紙や必要なものやお金を送ったり、ハグしたりしていた。家族に追い出され、誰にも愛されない人たちがあまりに多い中で、彼女はNPOのスタイルではなくて大きな家族を作ることにした。文字通り、たくさんの人の命を救ってきた。

そんな存在は稀有だから元々コミュニティでは知られた存在だったが、2010年代になって(つまり70代になってから)メジャーさんは世界的にも名前が知られるようになった。彼女のドキュメンタリー映画が作られ、日本を含めた各国でも上映される。メジャーさんをモチーフにTシャツやマグカップも販売された。

トランスの人たち(それも有色人種の)の名前が話題になるのは、それまでは殺された時だけだった、とメジャーさんの秘書は語る。メジャーさんは生き延びたことで、声をあげ続けていることで名前が知られた。

メジャーさんは社会からの抑圧や政府からのネグレクトとして定義される以外の人生を若い世代に想像させてくれる人、と周囲は語る。日本の私たちが、メジャーさんのドキュメンタリー映画を好きなのも同じ理由だろう。

トランスの人が犠牲以外で語られることがもっと増えていく、そんな世の中になるように願う。

 

 

ニュースレターはじめました

タイトル通り、ニュースレター始めました。
第一弾は九州レインボープライドで参政党のテーマソングが歌われた事案への対応についての考察と危機発生時のコミュニケーションについて書きました。

ここのブログとは別にたまにニュースレター更新していくのでよかったら登録ください。
https://mameta.theletter.jp/posts/c0b55760-bc4f-11f0-a101-a95715746a35