バラバラに、ともに。遠藤まめたのブログ

LGBTの子ども・若者支援に取り組む30代トランスの雑記帳です

マッサージ屋でsirと呼ばれた話

この前バンコクを旅する機会があり、マッサージ屋にいった。赤の他人に自分の身体を触られること自体がなかなかハードルが高く、いろんなメニューがあったが、自分が選べるのはフットマッサージ一択だった。

私の外見は男性にも女性にも見える。そのため自分がこの場に置いてどう認識されているのかは、いつもアンテナを張っているところがある。国によってもちがう。サンフランシスコでは楽勝だが台湾では苦戦する(童顔で小柄なアジア人に対する眼差しが分かれるのだろう)。そのため行ったことのない国に行くときには緊張する。

受付の人ははじめ私をsirと呼び、男性と思われていることがわかった。30分間、足をこねくり回してもやっぱりsirと呼んでくれたのでありがたかった。足のサイズで女性だと思われたら嫌だなと心配していた自分に気がついた。このような細かいところでの心配が日常生活の中でいろいろとある。

ここにある身体に対して、自分自身や他人がどう意味付けするのかは、場面や関係性、人生のときどきによって一律でない。10代の頃にはトランスジェンダーであることは罰ゲームなのだと思っていた。自分の肉体を憎むことでいっぱいだった当時は遺伝子のような単一の見方で自分の身体を捉えていた。自分の身体のせいでありとあらゆる間違いが生じ、大変な負債を背負わされていると絶望していた。

それが時間を経て、ひとつの基準で身体をとらえなくても良いのがだんだんわかっていった。

他人は適当だった。私に筋肉がなくても定食屋の店員はたくさんご飯を盛る。男女でご飯の盛り方を変える接客の是非はさておき、何の説明も必要とせず男性として扱われうることはホッとする(いつもそうだというわけではない)。

声の高さもどうせ世界で一番気にしているのは自分だ。未だにラジオに出た自分の声を聞くと「こんな声をしているんだな」と思い、正直、そんな好きってわけじゃない。でも貯金のある私は別にやろうと思えばいつだってホルモン療法はできる。医療アクセスしたくてもできなかった10代の頃とは心の余裕がちがう。

多くのトランスは恋人との関係に悩むが、私の交際相手は私の身体的ステータスにまったく興味がない。本当にどうでも良いと思われている。職場でもし誰かが代名詞を間違えても同僚が直してくれるだろう。それは私の外見の問題ではなく、代名詞を間違えた人の問題だ。

こうしてトランスであることはいつのまにか罰ゲームではなくなっていた。ただ、そのいくらかは細やかな諦めや心配と隣り合わせの生活がもはや当たり前になり、シスジェンダーであれば当然のことが同じようにできないことに慣れてしまった結果かもしれない。

もしも外見がシスジェンダーのように見えれば、自分が他者の目にどううつるのか考えることもなく街を移動できる。プールやジムにも行きやすくなるだろう。マッサージでもみほぐす範囲も増える。

それらの中には身体的トランジションに伴い可能になることもあれば、自分には一生手に入らないものもあるのだろう。

長く書いたが、ここに確かにあるはずの体は、ときどき人によって解釈のちがう詩みたいなもんである。