バラバラに、ともに。遠藤まめたのブログ

LGBTの子ども・若者支援に取り組む30代トランスの雑記帳です

「若い頃、私もそうだった」の嘘

10代のとき「あなたたちは温室にいて社会はもっと厳しいんだ」と話している教師がいた。あんたにワシの何がわかるんじゃと思っていたが、大人になってわかったことがある。それは、当時が自分の人生の中で最悪のときであり、大人になってからの方がよっほど幸せだったということだ。

ただ、「やっぱりあの時の自分が正しかったじゃん」ってのは、大人になってからじゃないと確証を得られない。だからなおさら若かった自分にとっては悔しかったなと、当時を振り返って思う。

数年前に知り合いから聞いて、なるほどなと思った言葉に「ユーシズム」がある。

セクシズムといえば性差別、レイシズムといえば人種差別であるように、ユーシズムは若い人たちに対する偏見や差別のことを言いあらわすらしい。若い人は自分自身のことをまだよく理解していないとか、若い人は若いから悩んでいるのだとかいう矮小化が含まれる。

例えば10代の若者が悩んでいることについて「自分も同じようにかつて悩んでいたが、今ではその悩みはどうでも良くなったので、この人が悩んでいることも大したことがない」といったように軽くあしらうこともユーシズムの一例である。

実際に、多くの大人は10代の頃に死ぬほど悩んでいて、大人になった今ではどうでも良くなった、ということの2つや3つは持っている。

中学生のときには自分のまぶたが「ひとえ」なのがすごく嫌で、毎日そのことが気になっていたとか。あるいは、クラスにいる、声がやたら大きい、いつもはしゃいでいる同級生が嫌いで、そいつのイヤホンから漏れているレッド・ホット・チリ・ペッパーズが嫌で仕方なかったとか。バンドに罪はないのに。

まぁそういうことっていうのは、いろいろあるものだ。

そして大人になった人々にとっては「過去のどうでもいいこと」として、海馬のガラクタ置き場に置かれている。20年ぐらいしてレッチリを聞いたら、もはや普通にかっこいいバンドである。カリフォルニケーション、最高じゃないか。このような実経験があることが、大人がバイアスを持つことの根拠になっている。

問題は、若い世代の苦しみの発露に対して、大人が反射的にバイアスを発動し、軽くみることだ。「大したことがない」とか「自分もそうだった」とか、ろくに吟味もせずに言う。あるいは、おまえは大人の苦しみを知らない、大人の苦しみの何がわかるんだ、とか言い始める。

特に、若い世代の性に関する悩みは、大人がユーシズム全開でのぞみがちだ。

ゲイやレズビアンの子に「同性が好きだ」と言われたら、異性愛者の大人が「自分もそうだった」とか言い始める。同じわけねーじゃんか。

「性別に違和感がある」も同じで、私もこれまで散々似たような反応をされてきた。「そうそう、私もスカート嫌だった」とか、トランスジェンダーでもない大人が言ってくる。だから、同じわけねーじゃんか。

落ち着け。今、おまえの話をしてない。まずは黙って話を聴け、と言いたくなる。同意や共感がどんな場所でも必要なわけじゃない。

でも、これを書いている私も、いい大人なので、そういうスイッチは作動しそうになる。人間は誰しも、息を吸って吐くようにバイアスを身につけてしまうが、バイアスがあることや、自分の思考のクセに気が付いてれば、暴走せずに済む、というのは多様性トレーニングでよく言われることだ。

大人が自分の経験に、悪い意味でも引っ張られてしまう、ということはもっと知られてもいいのかもしれない。