2005年ぐらいからネット空間に自分の考えていることをつらつら書いては、友人、知人、知らない人たちからコメントをもらい、自分の考えを形作って現在に至ってきた。ときおり炎上することもあったが、炎上から学ぶ有意義なこともあった。自分のアイデアや、学んだことをアウトプットするのが好きだった。それが5年ぐらい前までのインターネットだった。
それが、この5年ぐらいは気軽にアウトプットすることが難しくなった。一つには私がフォロワーが多いトランスジェンダーで、オンラインハラスメントのターゲットになっているということがある。Twitterのアルゴリズム変化や、トランスジェンダーを取り巻く環境の難しさによって、何を言っても曲解し炎上のネタになってしまう。トランスのインフルエンサーがオンラインハラスメントのターゲットになるのは世界共通なので仕方ないが、一言一句、自分の職場や所属団体にどのような影響があるかを考えながら発信しなくてはならないことには疲弊する。職場に嫌がらせがあるなんて大概のことだと思うが、残念ながら今のネット空間はそんな感じだ。
公平性を期していえば、どの政治的立場の中にもそういうことをする人がいる。そういう極端な人のことを指して、お互いの陣営によって「あの人たちはみんな過激である」との応酬が行われている。そして、そういうやりとりに辟易した中間層の人たちは、こんな話題に触れるのはやめようと思って沈黙する。こうして、トランスジェンダーの話題は、何だかイデオロギーの話にされてしまって、実在の生身の人間の生活であることが切り落とされて、今日もXで消費されている。
LGBTの権利保障に否定的である人だけでなく、プログレッシブな人たちとの議論もやっかいだ。自分なりに勇気を出して、運動のあり方について問題提起をしたこともあったが、そのようなことをする人は少ない。運動のやり方について、運動内部からの問題提起や批判を割としてきたタイプだと自分自身のことを思うが、リスクを取って発信をしている自分が、ばか正直すぎるようにも思った。
SNSが極化していく中で、ここで議論しても仕方ないやと思うようになった人たちはいっぱいいて、私もその中の一人になったということなんだろう。ただまぁ、こうやって時折、未練たらしくブログを書いているのは、インターネットが楽しかったときの記憶がまだ残っているからだ。アウトプットが減るということは、良質なインプットができなくなることでもある。全部やめるのもちょっとな、と思ってしまう。
いろいろ書かなくなった理由のもう一つは、自分が中年になったから、というのもある。私は10代後半の頃からアクティビストをやっていて、来年には活動20周年目を迎えてしまう。そうなると、活動経験がより少ない周囲の人たちと同じようには思考しないし、感情面でも同調しない。ざっくばらんに言えば、ひどいとされるニュースや書き込みを見ても、怒ったり悲しんだりということがあんまりない。怒りや悲しみといった強い感情に周りが巻き込まれているとき同調しないでいることは、それ自体が結構プレッシャーである。水を差してしまう気もするから、大体はだまる。口を慎むのが一番よいタイミングというのはある。
相手が知り合い、つまり人間関係を構築している相手である場合、カンカンに怒っている相手に、その人とは違うテンションで接し、起きた出来事について一緒にプロセスしていくこともある。相手の怒りをさらに増長させるのではないかとたびたび心配になることもあるが、意外と歓迎されたり、感謝されたりする。別の視点を提示したり、次の作戦を考えたり、過去の似たような事例について話したりできるのは、活動歴があるからできることだと思う。が、知らない相手に同じことをしたら、そうはならないだろう。知らない相手にネットで語りかけるより、知り合いを増やした方が自分の運動スタイルとしてはうまくいくのだと思う。
感情の扱いを避けては社会運動などできないし、無関心層を振り向かせることも難しい。しかし、常にエモーショナルであり続けることはバーンアウトを招く原因にもなる。それゆえ同調しないヤツの存在は貴重だと思っているが、SNSで「まずはお茶を飲もう」とか言い始めたら、それだけで叱られそうだ。でも、それって大事なことだよってことは言いたい。
そんなこんなで、インターネットの悪口を言いつつも、往生際が悪い感じで、今後もアクティビズムについて書いていくかもしれない。SNSを見ていると、運動のあり方とか、向いている方向性について、何だかどんどん狭くなっている感じがする。運動の裾野を広げるためにはどうしたらいいか、って話が本当はしたい。もっとも、その話をするのは、ここ(インターネット)ではないのかもしれないのだけれど。